知のフィールドワーク 37 (スキージャーナル2001.2月号) |
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追悼 キッツシュタインホルン |
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出口くんと初めて会ったのは77/78シーズンのワールドカップだと思う。当時、彼は競技から基礎スキーに転向したばかり。現在も最年長デモとして活躍しているKデモとふたりで、契約していたN社から派遣され、ワールドカップを"勉強"しに来ていた。私はまだ、今の会社が設立される前で、そのころは"巨匠"と呼ばれていたMカメラマンのアシスタント兼ドライバー兼通訳としてヨーロッパ中のワールドカップを"転戦"していた。出口くんは、スキーヤーにしては行動がスローで、口数も少なかったが、ときどきボソボソっと人をひきつけるようなスゴイ話をした。"三日月目"でいつも眼だけは笑っていたが、ワールドカップのゴールエリアで世界の一流選手を見上げているときの眼は真剣でキラキラしていた。結局、2シーズン、ヨーロッパのワールドカップでいっしょになったが、一度も彼の滑りを見ることはなかった。しかし、男っぽくて人間としての魅力にあふれていた彼は、その後デモとして活躍するようになってからも、なぜかとても気になる存在だった。 1991年1月、インタースキー・サンアントン大会"技術"を見せる場面だった。出口くんは、日本の代表デモとして小まわり急斜面パラレルの演技のスタートにいた。 バーンはワールドカップのスラロームで使われるとんでもない急斜面、ワールドカップ同様カリカリのアイスバーンだった。私は次期インタースキーの招致活動のため野沢温泉の招致団の一員としてサンアントンに来ていた。この日もゴールエリアで日本の発表を見上げていた。出口くんはいつのまにか、スーっとスタートしていた。どちらかというと滑り出してすぐが一番の急斜面で、出口くんのスキーはどんどん加速していった。しかし、そのとんでもないスピードにまったく遅れることなく、そしてまったく減速することなく、つまり、まったくズレることなく彼のスキーは真下に向かっていった。それは『急斜面でショートターンするには、スピードをコントロールしてターンひとつひとつ確実に抑えながら』と指導する基礎スキーの理想の滑りではなかったかもしれない。しかし、それは世界のトップスキーヤーのみができる究極のショートターンだった。出口くんがゴールするとワールドカップで世界の滑りを見慣れている地元のギャラリーから「ウォー」という歓声があがった。そんな中で出口沖彦は『いったい、なにがあったの?』という表情でいつもの三日月目でニッコリ笑った。吐く息だけが異常に白かった。 ふたりで世界最速の滑りを一緒に見てから12年後、出口くんはサンアントンで最高の滑りを見せてくれた。インタースキーはスキーのレベルの高い国でしか開催されない。彼の滑りを見て私は、次期インタースキーの招致成功をある程度確信した。もちろん、出口くんに感想を聞けばきっと『ごめん!ちょっと飛ばしすぎたね』あたりだろう。 2000年11月11日 夕方、日本のTVはオーストリア・キッツシュタインホルンスキー場でのケーブル事故のニュースを報じた。その日の深夜、会社からケーブルの終点にあるスキースクール、ブンデススキーアカデミー、何人かのスキー教師の携帯電話に何度も何度も電話したが不通。唯一、出口くんたちが泊まっていたホテルだけは通じたが「彼らはまだ戻って来ない」という返事。その日、彼らは9時30分にポールレッスンをするため、スキースクールに行くことになっていた。しかし、まったく連絡がとれない。時間がどんどん過ぎ、大惨事であることが次第にわかってくるが、彼らの消息はまったくつかめない。そして、1時か2時ごろ、現地対策本部で情報をとっていたYから涙声で電話があった。「田さん!今、タイヤーさん(キッツシュタインホルンスキー場のレーシングスクール校長)が山から下りてきたんです。今日、一日待ってたけど、日本人来なかったって……」「わかった、でもまだ山の上にたくさんスキーヤーがいるらしいから、もう少しそこで確認してくれよ!」と返事をしたが、私の中ではこの瞬間 『だめだ!』と思った。それまで希望を持って緊張していた身体中の力が一気に抜けてしまうのを感じた。ヘルベルト・タイヤーは、30年間キッツシュタインの山を知りつくしている人間だ。彼には広大なスキー場のすべてが"見えている"。その彼が夕方に山から下りて来て「日本人は見かけなかった」ではなく、「来なかった」と言ったのだ。そして、出口沖彦は『9時30分にケーブル山頂駅のスキースクール』と約束したらかならず守る男だ。 11月12日から27日まで、この件でカプルンとザルツブルクに行っていたが、その詳細をこのコラムで書くつもりはない。ただ、その間に目の当たりにしたたくさんの悲しいこと以外に感じたことをふたつ書きたい。 ひとつは、今回の事故後、義務教育期間中の生徒が学校を休んで、海外合宿に行っていたことに対する形どおりの批判が起こったこと。しかし、海外には、海外に出なければ絶対に手に入れることのできない実体験がある。経験することすべてが、かけがえのない貴重な宝物となる。その年代だからこそ、海外での経験によって得られるものは、計り知れないのではないだろうか ふたつめは報道のありかた。現地ではプレスの方々と話し合い、ご遺族の気持ちを理解して、配慮ある取材をしていただいた。一方、トンネル内の焼けたケーブルの写真、遺体安置所の写真と撮影など、絶対立ち入り禁止、撮影禁止といわれていたものが、翌日の新聞・TVで公表されていたのも事実である。これは知る権利・報道の自由という中で、代表TV局や通信社が、当局と交渉して世界中に配信するためで、ある程度やむを得ないことなのかもしれない。しかし、ご遺族や本人の承諾も得ずに絵葉書や安置所の記帳ノートのメッセージが公表されることが、どれほど彼らを傷つけていたのか、配慮していただきたかった。たしかに基本的人権の尊重、プライバシーの侵害と報道の自由・知る権利(ただ、本当に発行部数や視聴率アップのためでないものなのか……)の優先性というむずかしい問題ではあるが。 今ごろ、出口コーチと9名のキャンプ参加者は、3,203メートルのキッツシュタインホルン山頂よりもっとずっとずっと高いところでスキーを楽しんでいる、と思いたい。 ![]() |
田和夫 1953年生まれ。現在の日本のスキー界でもっともドイツ語に堪能で、その活動は単に「通訳」という範疇を超えている。言葉だけでなく、心も拾い上げる貴重にして希有なタレントの持主 |