マルティン・グガニック葬儀参列報告
マルティンの訃報の知らせを聞いたのは7月5日(土)の15:00頃だった。週末のため、各方面への連絡もあまり取れず、また、現地の様子も十分に把握できない状況であった。なんとか、7月8日(火)14:00(現地時間)から自宅のあるFlattachで葬儀が行われることがわかり、7月7日(月)の夜、成田発の便で私たち3名(村里、泉川、田)と白馬や志賀高原、八海山そしてスキージャーナルからMartinがお世話になったり、反対に面倒をみた“教え子たち”という総勢8名で現地へ向かった。
パリ着が現地時間の7月8日早朝4:00、乗り継ぎ便でミュンヘン着が8:30、そこからはレンタカーでオーストリアへ入り、葬儀の始まる直前にFlattachに到着した。現地は快晴で30度を越す暑さ、車がアウトバーンをおりて国道へはいってからもまだMartinが亡くなってしまったことが信じられないような気持ちだった。Flattachに着いたらMartinが、「ごめん、ごめん、ほんの冗談だよ。でもせっかく、遠いとこからきてくれたんだから、ビールでも飲もうよ!」といつもの笑顔で出迎えてくれるんじゃないかという気がして・・・いつもお世話になっているホテルFlattacherhofに着くとフロントには村中に配布されたと思われる「訃報の知らせー葬儀案内」が何枚か置かれていた。そこにはMartinの去年苦労して取った日本への長期滞在ビザのための申請書と同じ顔写真が載っていた。それを見てはじめて彼がもうこの世に存在しないことを認識した。部屋で喪服に着替えすぐに教会へ。村中から正装した人が集まってくる。ヨーロッパでは喪服を着るのは遺族だけで関係の近い人は民族衣装などの正装、知人は普通の格好でも派手な服装でなければ一向にかまわない。したがって、日本のように全員が黒一色というわけではない。
14:00丁度に教会の鐘が静かなFlattachの村に鳴り響き、葬儀がはじまった。Martinは何も語ることなく、日本から贈られた45個の供花に囲まれて遺体安置所の棺の中で静かに眠っていた。棺の前で神父が祈りをささげ、ご遺体は教会の中へ運ばれた。教会の入り口で待っていると神父と十字架を持った子供たちの後にゆっくりと棺が運ばれ、その後に遺族が続いた。Martinのお母さんが娘たち(Martinの姉さんたち)に支えられるようにして教会の中へ、その後を奥さんのLissyが同じく彼女の姉さんに支えられて遠くを見るような虚ろな表情でつづいた。とても、声を掛けられる状況ではなかった。そして親族が入った後、友人たちがつづいた。その中にいた
Richi BERGER
が私を見つけて近寄ってきた。お互いに言葉もなく抱き合うといままで我慢していた涙がボロボロでてきた。Richiの肩も震えているのがわかった。教会のなかでは追悼ミサがはじまったが参列者がいっぱいで相変わらず入り口のところに立っていた。神父のお説教は聖書の一説を読んだかとおもうと、故人の人生、人柄を語り私たち外国人にもとても判りやすい内容だった。Martinの日本での功績を讃え、遠い日本からの参列に感謝の意が述べられるとまた、涙が止まらなくなった。
1
時間ほどでミサが終わり、ご遺体は安置所の奥にある墓地へ運ばれた。
Gugganig
家の墓は小さな墓地の右の一番奥にあった。神父がお別れの挨拶をして、次に友人代表で今回の訃報を最初に日本に伝えてくれ、日本からの供花の手配も全てやってくれたブンデスのデモ仲間でMartinと同郷の
Thomas Egger
が弔辞を述べた。引き続き、参列者全員が最後のお別れへ。遺族が見守る中、順番に並んで棺の前へ行き、聖水を木の枝で十字を切って棺に振りかけ祈りを捧げた。墓は黒っぽい墓標ですでに亡くなったMartinの父と兄の名前、生年、没年が刻まれていた。最後に、遺族によって棺が降ろされ、土が盛られるが、その様子を参列者が見ることは礼儀に反するので私たちは遺族から食事を招待されていた
Flattacherhof
に向かった。テラスの横のテーブルでチロル州
Neustift
の定宿で、Martinもインターアルペンの初滑りキャンプを通じて親しくしていた
Hotel AUGARTEN
の
Stefan
夫婦や、同じく地元出身で国際技選の時、野沢温泉にたまたま居合わせていて
Martin
の“影のコーチ役”だった前全日本アルペンナショナルチームコーチの
Peter PRODINGER
と同席でMartinを偲んだ。
しばらくすると、葬儀では見かけなかった娘のNinaが外の私たちの様子が気になったのか従弟の男の子たちと現れた。まだ、もちろん何が起こったのかわからない年齢だが日本で会ったときより更に大きくなったというよりたくましくなった様子だった。でも、気のせいかどことなく寂しそうに見えた。偲ぶ会が終わる頃、親戚が次々に私たちのテーブルにやってきて挨拶をしていった。最後にMartinのお姉さんと、Lissyのお姉さんがやってきて「明日、Martinの家に是非来て欲しい、コーヒーとケーキを用意しているから・・・」といわれ、折角のご招待なので応じることにした。
翌日、ホテルをチェックアウトしてMartinの家へ。もう、庭にはテーブルと人数分の椅子が用意され、コーヒー、ケーキはもちろん、飲み物、食べ物が並べられていた。お母さんやLissyを慰めるため、両家のお姉さん(Martinがいなくなり、両家とも姉妹ばかりでおばあちゃん、Ninaも含め女性ばかりになってしまった)が全員来ていた。お母さんは葬儀の日から1晩あけたせいか少しいつもの様子に戻っていたがLissyはまだまだお姉さんにほとんどいつも付き添われているような状態のようだった。でも、私たちが行くとMartinがほとんどひとりで建てた家の中を案内してくれ、たくさんたまった二人の写真を涙を流しながら見せてくれた。Ninaはその日も従兄弟と遊んでいた。「この子は、女の子とちっとも遊ばないで、いつも男の子とばっかり!」とMartinの姉さんが庭中走り回っているNinaを見て笑った。Ninaは懐かしそうに?私たちのところに来ると時々皆に言われて、ぴょこっと頭を下げて日本式の挨拶をしてくれた。2時間ほどお邪魔して、Martinの家をあとにした。長い年月をかけて日本へ来ていた合間に少しずつ建ててきた家はほぼ完成していた。しかし、今年はじめた玄関周りの床張りは作業の途中だった様子がここの家の主人がいなくなってしまったことを物語っているようで痛々しかった。
私たちは、真夏の緑がまぶしいMartinの故郷を後にして、ミュンヘン空港へむかった。以前、訪れたときもMartinの故郷Falttachの村はほかのどこより時間がゆっくりと進んでいるような気がしたが、今回MartinがいないFalttachに初めて来て“時間が止まって”しまっているような気がした。できればもう1週間前に時間が止まってくれればこんなに悲しいことにはならなかったのに・・・
報告者:株式会社スポーツユニティ 田 和夫
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